この街で生まれ、この街で育ちました。
福岡市立脇山小学校を卒業後、中学・高校時代は泰星中学・高校(現・上智福岡)に通い、早良区野芥で青春時代を過ごしました。
現在は百道浜在住、2児の父として子育てに励む日々を送っています。
政治の現場を本気で学ぼうと、維新政治塾一期生として全国の志ある仲間たちと共に学び、行動してきました。
現在は会社経営に携わる一方、早良区で保護司として地域の子どもたちや社会と真剣に向き合っています。
尊敬する人物:坂本龍馬
好きな食べ物:ラーメン、白ごはんに明太子
趣味:仕事、釣り、登山、古代史スポットの散策

生い立ち【幼少期】


1980年10月23日生まれ。
この年は、読売ジャイアンツの長嶋茂雄監督が辞任し、王貞治選手が現役を引退した節目の年でもあります。
私の名前「壮一郎」は、「壮大な人生を歩んでほしい」という願いを込めて、当時福岡市役所に勤めていた父が名付けてくれました。
12歳までを過ごしたのは、福岡市早良区南部にある農村地域・脇山。室見川の源流である椎原川で泳ぎ、カブトムシを追いかけるような、自然に囲まれた少年時代を送りました。
地域を歩けば「おはよう!」「こんにちは!」と挨拶を交わすのが当たり前で、地域の皆さんに見守られながら育ったことは、私の原点です。
地域の方々と一緒に行ったキャンプや、日常的に振る舞われていた「かしわ飯」の炊き出し、そして「ほうげんきょう」や「夏祭り」などの行事は、今でも心に残る大切な思い出です。
小学校の卒業文集には「弁護士への第一歩」と記し、将来の夢に胸を膨らませていたあの頃の自分を、今では懐かしく思い出します。
現在でも夏になると、子どもたちを連れて椎原川へ出かけ、カブトムシを採集・飼育したり、背振山に登ったり、ホタルを見に行ったりしています。
この脇山への郷土愛は、今も変わることはありません。
中高時代
中学・高校時代は、福岡市内にある泰星中学・高校(現・上智福岡中学高等学校)に通いました。
大好きだった祖父が亡くなり、早良区の野芥へ引っ越したのもこの頃の出来事です。
部活動ではブラスオーケストラ部に所属し、ホルンを担当していました。なかでも、福岡市の姉妹都市であるニュージーランド・オークランド市での演奏公演は、今でも強く印象に残っています。
高校生になると、「自分で何かをやってみたい」という気持ちが芽生え、クラブでDJ活動をするなど、さまざまなことに積極的に挑戦するようになりました。15歳のときには、当時ブームだったナイキの「エアマックス」を転売するなど、自然と商取引への関心が湧き、将来は自分で起業したいと漠然と考えるようになっていきました。
また、この時期に築いた多くの友情は、今でも私の大きな財産です。
プライベートでは、当時の友人や先輩・後輩たちと今も変わらず交流を続けています。


高校中退からビジネス界へ
高校を中退した後も、自分なりのビジネスの道を模索し続けました。当時は、商社に自ら考案したビジネスモデルを売り込むなど、積極的に行動を起こしていましたが、結果には結びつかず、試行錯誤の日々が続きました。
そんな中で、「インターネット上に商店を集めた仮想商店街」というアイデアを思いつき、独自にビジネスモデルを構築。しかし、資金や人脈、知識の不足から実現には至りませんでした。後に、同じようなモデルで誕生した「楽天」が世間を席巻するのを目の当たりにしたとき、自分の力不足を痛感し、いつか必ず力をつけて再挑戦しようと心に誓いました。
この時期の挑戦を通じて、自分の中にひとつの信念が生まれました。
それは、「失敗しても、あと1回挑戦を繰り返す」という姿勢です。思い描いた理想が実現できなかったとしても、諦めずに“もう一度だけやってみる”。この「もう1回」の積み重ねこそが、自分を成長させ、次の扉を開く鍵になるのだと実感しました。
その後は、ご縁があって派遣会社のスタッフとして働きながら、生活を支える一方で、株式投資や新たなビジネスモデルの研究にも熱心に取り組みました。地道な努力の積み重ねと、小さな挑戦の繰り返しが、今の自分を支える土台となっています。
起業に至るまで
20歳頃から本格的に取り組み始めた株式投資は、自分にとって単なる資産運用ではなく、社会や経済の仕組みを学ぶ“実践の教科書”のような存在でした。日々チャートと向き合い、企業分析を重ねるうちに、少しずつ成果が出始め、やがて投資仲間も増えていきました。
23歳になる頃には、Yahooグループ内で日本最大規模の投資グループを運営するまでに成長。多くの個人投資家と議論を交わしながら、相場観を磨き、自分の考えを発信することで、マーケットのダイナミズムと向き合う日々が続きました。
こうした経験を通じて強く思ったのは、「株式市場を通じて社会をより良く変えていく力になりたい」ということでした。
単なる売買にとどまらず、市場に支持されるアクティビストファンドを立ち上げたい――そう考えるようになり、自らのビジネスモデルを再構築し、この分野での起業を決意したのもこの時期です。
“失敗してもあと1回挑戦する”という信念を胸に、私はビジネスというフィールドで新たな挑戦を始める覚悟を固めました。
子どもが生まれて

そして25歳の時、金融庁に正式に登録した投資顧問会社を「日本最年少」で設立することができました。当時の私は、アフロヘアがトレードマーク。証券取引所で講師を務める姿が珍しかったのか、「アフロ社長」と呼ばれることもありました(笑)。
起業を通じて、経営の難しさや、人を雇い、雇用を守るという責任の重さを身をもって経験しました。このときに学んだ「信頼される経営とは何か」という問いかけは、今でも自分の行動指針のひとつになっています。
またこの頃から、当時はまだ珍しかったサブスクリプション型のビジネスモデルを提唱し、仕組みとして世に広めていきました。時代の変化を読み、柔軟にビジネスモデルを進化させていくことの重要性を、肌で感じていた時期です。
一方で、ちょうどこの時期は民主党政権下にありました。日々まじめに働き、納税をしているにもかかわらず、経済への理解が乏しい政治家の発言や、無駄の多い政策に強い違和感を覚えていました。当時、経済ニュースに携わる仕事をしていたからこそ、政治と経済の乖離に対する不満がより強かったのかもしれません。
そんな中、27歳で長女が誕生しました。命を預かる責任、そしてこの子の未来をどう守り、つくっていくのか。家族の存在が、私の中に「次世代に対する責任感」という新たな軸を生み出しました。この想いは今でも、私の原動力となっています。
人生の転機「人のために生きる覚悟」
私の人生を大きく変える出来事となったのが、2011年3月11日に発生した東日本大震災でした。その直後、宮城県仙台市に住む友人から届いた電話。その第一声は、たった一言、「街がない」。
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられるような衝撃を受け、「今、自分にできることをやろう」と強く決意しました。
すぐにTwitterで支援物資の呼びかけを行ったところ、その投稿が大きな反響を呼び、瞬く間に拡散。知らぬ間にチェーンメール化されるほど広まり、最終的には約50トンもの支援物資が集まりました。
しかし、その過程である政治家から受けた一本の電話。
「パフォーマンスだけしていればいいのに、君はバカ正直すぎる」。
あまりに心ない言葉でしたが、逆にこの言葉が、私の中で政治のあり方そのものへの疑問と向き合うきっかけになったのです。
当時、東日本の被災地には、まだ道路が通じていない場所が多くありました。そこで私は、マグロ漁船による全国物資リレーという前例のない方法で実行。多くの協力者の力を借りながら、物資を船で届けることに成功しました。わずか数日間で50トンの支援物資を被災地へ届けることができたという経験は、自分にとって大きな達成感と誇りとなりました。
この一連の活動の中で、行政がほとんど機能していなかった現実、そして一部政治家の冷淡さに触れたことが、私の中で「このままではいけない」という思いを強くし、政治の世界へ大きく傾く転機となりました。
またこのとき、全国の青年会議所(JC)のメンバー、とくに神奈川県の方々に多くの支援をいただきました。このご縁から、私も福岡青年会議所(福岡JC)に入会することとなり、「地域を超えた人のつながり」が持つ力を実感しました。
今振り返れば、この震災支援の活動を通して、私ははっきりと心に決めていたのだと思います。
「誰かのために生きる人生を歩もう」と。



政治の学び「会いたい人を訪ねて」


2011年から2012年にかけて、私は「政治を本格的に学びたい」という想いを胸に、全国を奔走していました。とりわけ印象的だったのは、元宮崎県知事・東国原英夫氏の講演を聴いたことでした。その率直な言葉と、地方行政に対する情熱に強く心を動かされ、「この人から直接学びたい」と思い、なんと自ら講演会を企画することに。以降も定期的に意見交換を重ね、多くのことを教えていただいています。
2012年には、大阪で開催された「維新政治塾」に参加。橋下徹氏の改革への実行力、現場主義、政策設計の手腕に感銘を受け、政治のリアリズムと向き合うことの重要性を深く学びました。同時期には、佐賀県武雄市の市長・樋渡啓介氏とも出会い、その革新的な行政手法にも大きな刺激を受けました。「政治を知るなら、現場のトップから学ぼう」と決めていた私は、とにかく全国の自治体を訪れ、数多くの首長の方々と交流を重ねました。
その経験の中で、「福岡にも、地方から変革を起こす政治の流れを作りたい」との思いが芽生え、福岡で『維新の会』を立ち上げることを決意。市議会議員の方々に声をかけ、大阪維新の会との協定書を交わし、2012年、『福岡維新の会』を設立しました。困難も多い挑戦でしたが、「次代を創る」という強い思いが、行動の原動力となっていました。
その後、2012年の衆議院選挙においては、日本維新の会の公認を獲得。しかし、党の合併に伴う選挙区調整により、やむなく出馬を断念することとなりました。それでも「これは力を蓄える時間だ」と自らを奮い立たせ、全国の維新の候補者たちを応援する選挙支援に奔走。
多くの先輩議員や仲間たちから、政治活動の現場での知見を学ぶ貴重な時間となりました。
そして2018年。福岡市議会で議論された空港出資問題などを通じて、「市民の声」と「市議会の意思」とのあいだにある深い隔たりを強く感じるようになりました。行政の透明性、市民との対話のあり方――それらは決して他人事ではなく、自分自身が動くべき時だという想いが募っていきました。
こうして、2019年。私は生まれ育った早良区から、福岡市議会議員選挙への出馬を決意しました。「誰かのために生きる人生を」と誓った東日本大震災のときの想いを胸に、いよいよ政治の世界に一歩を踏み出すこととなったのです。
コロナ禍で。
私は、これまで選挙にも挑戦してきましたが、残念ながら自身の力不足から、まだ民意を得ることはできていません。
それでも、この経験は、自分にとって大きな学びと成長の機会となりました。
そして、2020年――新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界中が大きな混乱と不安に包まれました。
地域の飲食店や事業者の方々が困難に直面するなかで、「自分にできる支援は何か」と考え、補助金や給付金の情報をまとめたチラシを何度も作成し、一軒一軒訪問しながら配布を行いました。
その活動を通じて、多くの皆さまの声を直接お聴きすることができたことは、私にとって何よりの財産です。
これからも、もっともっと早良区の皆さまの声を丁寧に聴き、寄り添いながら、福岡市に必要とされる人物となれるよう、一歩一歩努力を重ねていきたいと思っています。


最後に、いまの仕事・活動団体など
◆株式会社アイリンクインベストメント 代表取締役
◆株式会社アイエルアイパートナーズ founder
◆ウケる株式会社 取締役
◆一般社団法人日本金融経済教育機構 代表理事
◆法務省 保護司 理事
◆NPO法人 早良ひまわり会 理事
◆特定非営利活動法人 福岡県就労支援事業者機構 委員
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